2011年9月23日(祝)
彼岸お施餓鬼法要を 午前は 11時より 午後は 14時の
二部行ないます。
宗派関係なく参加出来ますので この機会にぜひ如何でしょうか?
是非、お待ちしております。
ところでお施餓鬼とは…こんなお話があります。(≧▽≦)
おいてきぼり
むかしむかしのお話です。一人の男が深い森の中で修行を行なっていました。
彼の名は阿難(あなん)といい、お釈迦さまの弟子の中でも十大弟子と言われる優れた弟子の
中の一人でした。
阿難は大きな木下に坐り、足を組んで目を閉じてジッとしていました。心静かに瞑想して
いると思いきや、彼の心の中はまったく修行の方には向いていませんでした。
「舎利弗(しゃりほつ)さんは悟りを開いて優れた智慧を手に入れた。魔可目揵連(まかもつけんれん)さんは
神通力を手に入れた。魔可迦葉(まかかしょう)さんは執着を捨てた悟りを得た」次々と悟りを開いていく
先輩や仲間たちの事を考えてたのです。
「阿那律(あなりつ)さんは失明してるのに智慧の眼を持つことができた。須菩提(しゅぼ
だい)さんは争う心をなくす智慧を得た」阿難は、だんだん自分が惨めになって来ました。
誰よりもお釈迦さまのそばにいて、いつも智慧の教えを聞いているというのに、一向に悟りはやってこない。
私だけが悟りを開くことができないのではないだろうかという弱気な心が広がります。
「悟りを得た富楼那(ふるな)さんの説教は誰にも劣らないし、迦旃延(かせんねん)さん
の説く教えは本当に分かりやすい。優波離(うばり)さんはお釈迦さまが作られた戒律をしっかり守っている」
何をどうしたら、そんな悟りに到達することができるのだろうか。
阿難は先に悟りを開いた仲間たちと自分のどこが違うのかを考えていました。悟りへの憧れと、羨望、そして嫉妬と妬み。
阿難の心は次第にゆがみ始めていきました。
「羅睺羅は俺より年下の癖に、チョッとまじめに修行したら悟りを開きやがって。
お釈迦さまの本当の息子だから、きっと何か特別なことを教わったに違いない。なんて生意気なんだ」
自分のことはさておき、だんだん仲間を悪く思う始末です。
「あー、チクショウ!」阿難は瞑想どころではありません。本当に心が迷走していました。
そんな毎日を過ごしている阿難を、じっと遠くから見つめている方がいらっしゃいました。
お釈迦さまです。
大きくため息をついたお釈迦さまは、阿難に背を向け森の外に出て行きました。
笑う鬼
その日も、阿難は未明から森の中で足を組み瞑想していました。しかし、一度心の中に現れた邪念
はどんなに集中しようとしても阿難の心の中を駆け巡っていくのです。
それはまるで、夏の空に湧き上がる入道雲のように阿難の心に邪悪な闇が広がっていきました。
と、その時です。突然、阿難の目の前に鬼が現れました。その鬼は「焔口餓鬼」(えんくがき)と
いい、体は醜く痩せ衰え、咽喉(のど)は針のように細く、乱れた髪の毛は逆立ち、真っ赤に血走った
眼を大きく見開き、おまけに臭い息と共に口からはメラメラと火を吐くという世にも恐ろしい姿をして
いました。
その餓鬼が阿難に向かって、こう言ったのです。
「いいかよく聞け。お前の命はもうないのだ。三日後には、苦しみながら死んで、俺のような餓鬼に
生まれ変わるのだ」
驚いた阿難は、餓鬼の前に進み出て命乞いをしました。
「なぜ私がそんな目に遭わなければいけないのですか。毎日毎日、こうやって修行もしているのに、
一体私が何をしたというのですか。お願いです。どうか私を助けて下さい。あなたの言うことは何でも
します」餓鬼に向かって手を合わせ懇願する阿難に鬼はこう言い放ったのです。
「俺の言うことを何でも聞くだと、フン面白い。それならば、俺をこの地獄の世界から救い出してみ
ろ。俺だけじゃだめだ。俺と同じように地獄で苦しんでる餓鬼がたくさんいる。その鬼たちに食べ物や
飲み物を供養しろ。そして仏、法、僧の三宝を供養すれば俺たちはきっと地獄から救われるに違いない。
そうすりゃ、お前の命も救われるかもな。まぁ、どうせお前には無理だろうがな。三日後にまた会おう。
死んだお前を食いにきてやるよ、ガハハハ」餓鬼は、そう言ったかと思うと不意に消えてしまいました。
あまりの恐怖に腰を抜かしてしまった阿難は、地べたにへたり込んでしまいました。が、急に我に返
り、膝をガクガクさせながら這うようにしてお釈迦さまの元に向かいました。
お釈迦さまの教え
お釈迦さまは、涼しげな風の吹いている大きな木の下で瞑想していました。お釈迦さまを見つ
けた阿難は、先ほどの出来事を報告し、助けを求めました。
「阿難、落ち着いてよく聞くがいい。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の教えの一つに『加持
飲食陀羅尼』(かじおんじきだらに)という手法がある。沢山の食べ物や飲み物をお供えし、
修行僧を集めて、この手法を行なうがいい。供養された食べ物は無量の食物となって、地獄の餓
鬼たちに行き渡り、空腹を満たすだろう。
修法の読経は餓鬼ばかりでなく一切の困難を抱えているものたちを救い、その功徳によって
おまえの命も救われるに違いない」阿難は言われた通りに、沢山の食べ物や飲み物を用意し、
多くの僧侶に頭を下げ法要を行なってもらいました。もちろん阿難も自らその法要に出席し、
心を込めて苦しんでいる鬼たちのために経典を読みました。そのおかげで、阿難の命は救われ、
地獄の餓鬼たちも救われたそうです。
阿難ってだれ?
この阿難のお話が『施餓鬼会』(せがきえ)の起源といわれています。
しかし、なぜ修行中の阿難の前に、いきなり餓鬼が出現したのでしょうか。実は、この餓鬼は阿難そのも
のだったのです。悟りを開くことだけを考えていた阿難。他の人々のことは考えず、ひたすら自分の幸せだ
けを考えていました。
それは、まったくお釈迦さまの教えとは懸け離れた心です。お釈迦さまは、悟りに執着し、人を恨み妬む
心を持った阿難を正しい道に導くため、神通力で鬼を出現させたのです。しかも、その鬼とは阿難自身の姿
だったのです。
私たちは、いつも自分が一番大切です。一度、平常心を失うと他人が目に入らなくなってしまいます。そ
れはまさしく煩悩であり、鬼の心そのものといってもいいでしょう。
お釈迦さまは、悟りを開く一つの方法として『上求菩提・下化衆生』(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)
という生き方を示しました。
悟りに至るためには、自分より苦しんでいる者たちを救い教化する行ないによって、はじめて悟りに近づ
いていけると言う意味です。
自分だけの救いを求め、悟りに執着した阿難は、そのことにまったく気がついていませんでした。お施餓
鬼の法要は、他の命に感謝し、苦しむものたちに功徳をささげ、『上求菩提・下化衆生』を修行する法要なのです。
私たちの心には、阿難さまと同じ煩悩という鬼が住んでいます。
自分だけの幸せを求め物品や地位に執着し、人を妬み、嫉妬するような生き方では、決して幸せにはなり
ません。
自分の心の中の鬼を仏に代えること、つまり、あなた自身が仏になり、浄土に向かう生き方に気が付くこ
とが施餓鬼の法要です。
さあ、早く地獄から抜け出して浄土に行きましょう。きっと、そこには涼しくて気持ちのいい風が吹いてい
るはずです。
おわり
文 互井 観章
誰も一緒 みんな一緒
だからうらやましく思う事も 自分を卑下することもないんです
そして自分のいいところを自慢するのでなく もっとよりよくするために
宗教はあるのですね(≧▽≦)
全てはこころの有り方次第…
是非、一度お立ち寄り下さいませ(≧▽≦)
合掌